“知ってるつもり” が大多数、だから一緒に学びましょう!
普段何気なく使う “お金” ですが、今の大人は学校教育で何も教えられないままで社会に出され、何となく昔からの考え方のままで過ごしてる人がほとんどです。
平成の30年を経て世の中は劇的に変化し、お金の知識がない人たちはあからさまな搾取対象になってます。サギだけでなく、企業や国からもです。
年金などの社会保障制度や税金、経済の仕組み、もっと身近でいえばキャッシュレス、円高円安、需要と供給などの基本的なことも
「社会人なら知ってて当然」
みたいな空気があります。もしあなたが
「知らないのは自分だけ?」
と不安に思ってるなら、大丈夫です。
ちゃんと知ってる人なんてほとんどいません。
国を動かしてる人たちですらそうなのです。
だから日本の経済成長はほぼ横ばい続きです。

1.さらっと中世まで
物々交換に始まった食料の流通は、農耕の誕生による作物の安定供給で大きく変化することになりました。
コミュニティ全体で共通の対象を決めて、それと交換をする。
つまりお金のはじまりです。
日本では稲や布を対象としました。
物品貨幣といいます。
後に対象は金銀銅へと変わり、貨幣が一般化していきます。
飛鳥・奈良時代には国内で作ってましたが、その後約600年は中国から貨幣を輸入してました。
戦国時代には金銀の採掘が盛んになったので戦国大名たちは独自の金貨や銀貨を作りました。
次項で説明しますが、金本位制という制度の導入で明治時代には貨幣におなじみ “円” の名が使われるようになりました(金1.5g=1円でスタートし、明治末期に0.75g=1円に)。
一部参考 造幣局 日本の貨幣の歴史
日本は稲や布、中国は貝、世界の他の地域ではどうだったか?
古代ローマでは塩が兵士たちの給料だったそうです。
東アフリカでは牛・羊・ヤギが食料ではなくお金として使われてました。
ちなみに原始時代に巨大な石をお金としていた、なんてイメージは実際にミクロネシアでやっていたそうです。
30センチくらいから3メートル級まであったそうで、真ん中に穴を開けて丸太を差して運んだとか。
2.〇〇本位制
江戸時代の複雑な事情
江戸幕府が貨幣制度を統一した、と前述しましたがその実態は実に複雑でした。
ざっくり説明すると、金・銀・銭(銅や鉛)と3つが混在していてそれぞれが独立した制度になってたのでその時の相場価値で両替が必要だったのです。

現代で言えば、日本でドル・ユーロ・円が使えるようなものでした。
そのため両替商という両替を請け負う職業がありました。
大きな両替商は後の銀行へと発展します。
3つの貨幣以外にも各藩が独自の紙幣(藩札)を使ってたりもしたので、全然統一されてないのが実際のところでした。
明治になったとき、政府はこれを何とかする必要がありました。
金本位制
貨幣の価値を金に裏付けさせる、という制度で金地金本位制といいます。
産業革命で当時世界の中心にいたイギリスから世界に広まりました。
1816年イギリスは貨幣法を定めて1ポンド金貨を作りました。
1ポンド紙幣は1ポンド金貨と交換可能とし、価値を保障するという貨幣価値の基準を作りました。
ちなみに金などの正貨(本位貨幣)と交換可能な紙幣を兌換紙幣といいます。
これによって他国との貿易での通貨価値の違いを、金という共通の対象を基準にすることで保障できるようになりました。
産業革命と金本位制でイギリスは世界帝国へと発展します。
日本では明治新政府となって、江戸の複雑な貨幣制度を改めるべくまずは銀本位制が挙がりました。
しかし視察渡米帰りの伊藤博文の意見で欧米に合わせて一円の価値を金の重さで定める金本位制が定められました。
その一方で貿易決済では銀を使い続けることを認めたので、金銀複本位制という状態でした。
小国は従うしかない
当時の欧米からしたら日本は小国で、貿易で銀決済してましたが欧米諸国はあくまで金本位制です。金以外は通貨の価値を保障しない世の中です。
なので世界的に銀の価格は暴落しました。通貨の価値を保障しないからです。

日清戦争の賠償金で日本はなんとか金本位制を導入できました。
しかしこの制度は立場が弱い方が不利な仕組みでした。
金は作ることができない貴重なものなのに、どんどん作れる輸入品の代わりに金が国外に流れれば絶対量は減ります。

金の量=通貨の量だから通貨量も減る→経済成長できない!
金本位制は国力が大きい産業国に圧倒的に有利な制度だったのですぐに廃れます。
第一次大戦が始まると、どの国も戦費確保のために金を国外に出さないようになり金本位制は停止しました。
一旦は復活するも世界恐慌によって引導を渡されました。
日本はその後も世界恐慌、関東大震災、犬養内閣の金輸出禁止などなどでそのまま金本位制を復活させる機会はなくなり、太平洋戦争開戦後には管理通貨制度へと移行しました。
3.紙幣は交換券だった
金と交換できる紙=紙幣→価値が保障されてた
世界的に見ると、金本位制は通貨の価値を “金と交換できること” で保障していたので通貨はそれ自体の材質に価値がある金や銀である必要がなくなりました。
そこで持ち運びに便利な紙幣が急速に広まっていきます。
もとは大航海時代、ヨーロッパの富豪たちが金細工師の金庫に金を預けていた証明書がいつしか金と同じように使われるようになったことが始まりと言われます。
日本では明治になって政府から太政官札という紙幣は発行されましたが、価値がしっかりと保障されてるとは言えませんでした。
まだできたばかりの明治政府の信用は高くなかった上、兌換紙幣のように価値を保障する対象がなかったためです(不換紙幣といいます)。
技術的に未熟で偽造が多かったのもあり、一般には普及しませんでした。

日本では江戸時代の両替商が発行した手形がお金替わりに使われたこと(ヨーロッパの金細工師の預かり証と似た現象)と、明治政府が西欧にならって作っていった銀行制度とがうまく絡み合って紙幣が定着した感があります。
江戸時代の両替商は手数料を取って両替してたので空港の両替に近かったと言えます。
そのうち預かりや貸付もするようになり、銀行寄りの業務もするようになって力をつけていきました。
一定額の金銀を預ける商人に両替商は手形(預かり証)を発行するようになり、商人たちは手間を省くために取引の決済に手形をそのまま使うようになりました。
重い金貨や銀貨を持ち歩かなくても決済できる上、有力な両替商に手形を発行してもらえるという事は商人の信用にもつながりました。
日本銀行の誕生
明治になって政府は統一通貨の発行のため江戸時代の複雑な通貨制度を廃止しました。
十進法に基づいた円・銭・厘の単位+西洋の貨幣鋳造技術を導入しつつ藩ごとに流通していた藩札の回収などをしていきました。
両替の必要がなくなり、両替業だけをしていた小規模の両替商は廃業していきましたが、預かりや貸付などをしていた有力な両替商はその銀行的な業務で存続しました。
明治政府はこの有力両替商たちの出資・協力をもとに国立銀行という名前の民間銀行を設立します。
初めに4つの国立銀行が設立されましたが、政府が不換紙幣(価値を保障する対象を必要としない)の発行をほぼ全面的に認めたので153まで増えました。
各銀行には番号が振られ、残っている銀行もあります(第四銀行や七十七銀行など)。ちなみに第一国立銀行が後の第一勧業銀行→みずほ銀行です。
明治政府は幕府の負債や西南戦争その他もろもろで火の車だったので国立銀行にバンバン紙幣を刷らせました。
結果、当然のごとく激しいインフレが起こります。

お金の量が増えると物価高騰して国民生活を圧迫します!
このインフレを鎮静化するために中央銀行の設立と、価値を保障された兌換紙幣の発行が行われました。
日本銀行の誕生で、日本銀行券の発行です。
日本銀行誕生によって国立銀行たちは不換紙幣発行を禁止され、現在のような銀行業務へとシフトすることになりました。
日本銀行は上場しているということは当時の国立銀行のように民間なのか?

民間とも言えない、かと言って政府機関でもない、認可法人という特殊な法人です!
日本銀行が上場してる理由は、政府とは独立した法人だということを明確にするためだそうです。
しかし上場してるので、法人や個人から直接資金を集めることも可能なわけです。ただし何のうまみもないので【日銀8301】を買う個人はいないと思います。。
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